前ページへファンフィク部門トップへ

 薬のためか窓から見える澄み切った空を眺めているうちにうとうとして、夢の中でも青い空を見た。青空の中に立つ夫が笑いかけ、大きな手を差し伸べてくる。縋りついたその手の暖かさに目が覚めた。
いつの間に来ていたのか傍らの椅子にかけた子供が自分の手に手を重ね、はるか彼方をジェット機が通過していく背後の空に見入っている。陽光にきらめく両翼から続く飛行機雲は定規で引いたような直線を大空に描き続け、長く尾を引く先はたちまちクレヨン画のようにぼやけていく。片時も飛行機のことが頭から離れないような子供がおかしく、愛しく、笑い出してしまった。珍しい笑い声に子供が嬉しそうにこちらを向く。様子を見にきたナースが、部屋の隅で点滴のスタンドを片付ける金属的な音がしている。静かに澄んだ眼差しに見詰められるとなんだか泣きたくなってくる。
 笑顔を消した表情の中で白っぽくなった唇が動くがナースを意識してか、幽かな声は聞き取りにくい。母の方へ身を乗り出すと
「健、よく聞いて…」
察しの良い子は特別な話の予感に怯えて後ずさり
「いや…」
手を引き抜こうとする。
「聞きなさい…」
かぶりを振って拒む子を青い目が見据え、細い手に力が込められた。
「待っているのよ。いいわね…お父さんを、待って…いるのよ…」
かすれた声が繰り返すうちにやつれた顔の中で大きな目が熱を帯びたように潤み、頬が紅潮して喘ぐような息遣いが始まった。ナースが異変を察して駆け寄ってくる。さらにドアから入って来た医師と別のナースが足早に近寄ってきて、子供の手を掴んだまま起き上がろうともがいている病人を取り囲んだ。室内の空気がざわめく。
「こちらへ」
若いナースが無造作に母と子を離そうとする。
「わかった…?」
幼い手をきつく握り締めた細い手をナースがほどく間もかすれた声が繰り返す。表情を強張らせて頷く子を確めると、母は力尽きたかのように枕の上に崩れ落ち眼を閉じた。か細い肩が激しく上下しているのが医師やナースの間から見えたが、若いナースが強い力で子供をドアから押し出して殺気だった表情で抱えるようにして廊下を進み、少しでも背後の慌しい気配から遠ざけようとした。

(あの子を見送ってやれなかった)容態を引き継いだ夜勤のナース達が、消灯後の静まり返った病室を見回り始めた。彼女たちの待つ小さな光が控えめに室内とベッドを照らし、ドアから廊下に去っていく。激務を忙しげにこなしていく光の輪は幾たび病室を訪れても、声もなく泣きながら眠れぬ夜を過ごす母親に気付くことはなかった。

就任式

 明け方の驟雨がうそのように晴れ上がり、ホントワール共和国大統領就任式の輝かしい朝を迎えた。就任式のスタートと現政権の2期の幕開けを告げる記念飛行を数時間後に控え、最終ブリーフィングを終えた一室で彼はひとり、緊張感と戦っていた。ホントワール空軍のパイロット達は編隊飛行の打ち合わせを行うため、別室に去っていった。記念飛行に使用される機体が格納庫から引き出され窓の向こうを横切っていく。手入れの行き届いた滑走路わきの芝生の美しさにもこの国の豊かさを思った。
指示を受けながら動き回っている係員たちの生き生きとした表情を見ていると、時代が違うのだということを思い知らされるようだった。傭兵パイロットの頃は何よりも実戦経験がものをいい、手段を選ばずに撃墜した数を競い合った。このホントワール空軍のパイロットの中に実戦経験がある者がどれぐらいいるだろう?だが、空で出会った相手は叩き落し、地上で出会う相手には心を許すこともなかった傭兵時代の自分に比べ、平和な時代に生まれ豊かな国に育つ彼らは理論を学び、互いを信頼しあって純粋に飛行技術を高めていく。彼は気持ちが萎縮するのを感じた。
 時間になったらしく、空軍の制服をつけた係官が入口に立った。萎縮した心がいっそう怯む。空軍の若い係官は緊張しながらも一民間パイロットに過ぎない彼に丁寧に挨拶し、本日の予定を確認していく。折り目正しいその態度には、大統領就任式の記念飛行に空軍と並んで民間から抜擢されたパイロットに対する深い尊敬が感じられた。
(そうだ、もう時代が違うのだ)この国のスタートを自分のスタートとすればいい。憧れの国で新しい人生を始めるのだ。そのためにも今日の記念飛行に全力を尽くそう。気分の高揚してきた彼は係官に案内されながら、これからのことを思って独りでに緩む口元を引き締めるのに苦労した。

 数週間前、就任式で行なわれる記念飛行の命を受けて、打ち合わせに訪れた大統領府では幅広い年代のスタッフが大勢働いていた。あらゆる分野から選びぬかれた有能な人材ばかりを集めた中で、記念飛行を担当するスタッフのうち窓口に当たるその事務官はいやでも目立った。手際がよくなくて動きが悪い。打合せを重ねるうち、この思わぬ獲物に彼は目を細めた。
 空軍との初顔合わせの連絡を受けて、指定された時間に大統領府まで出掛けたが、若い事務官は席を外していた。周りのスタッフに尋ねてコピー室に向かうと、案の定コピー機と格闘している。声をかけると慌ててストップボタンを押した。
「コピーを済ませたら?急ぐんだろ?」
「あ、ああ、悪いね」
再びコピー機が作動を始めてすぐ用紙が切れてしまった。ため息をついた彼が頭上の棚から用紙の詰まった箱を抱え降ろすのを手伝ってやり、背を向けてしゃがみ込んで空のトレイを引き出し、用紙を補給している隙に、コピー機の上に無造作に乗せられた原稿を束ごとわずかに動かした。
「よし!」
勢い良く立ち上がった彼は、動かされた原稿の束を身体に引っ掛け、たちまち床に撒き散らしてしまった。一面に撒かれた原稿を二人して拾い集めていると慌しい足音が響いた。
「おい!空軍から電話が入ってるぞ。打合せじゃないのか!?」
「あっ!」
「早く出ろよ。カンカンだぜ」
いかにも有能そうな同僚はうんざりした表情で言い捨て、忙しげに戻って行く。天井のスピーカーからも彼を呼び出すアナウンスが始まり、若い事務官は汗をにじませた顔を泣きそうに歪めた。
「空軍からの電話なんだろ?残りは集めておくよ」
原稿の束を振ってみせながら笑いかける。
「頼むよ。恩に着る。直ぐに戻るから」
「ああ、いいよ。待ってる」
どたどたと足音が遠ざかって、一人きりになったコピー室で視線は手にした原稿に釘付けになっている。

 空軍の係官がジープを運転して彼を滑走路に運んだ。行き届いた点検と整備をもう一度、自分の目でひとつひとつ確認して磨き上げたような機体を一瞥し、操縦席に滑り込む。ずらりと並んだスイッチ類、計器類、調節レバーを順次点検していく。整備員にエンジン始動を合図して、スタータースイッチを入れる。心地よい振動が順調にエンジンの回転数が上がっていくのを伝えてくる。
地上滑走の指示を受け、滑走路へと移動した機体は最終点検を終了して管制塔の指示に従い、走り出す。滑走路の中心線に添って走り、速力を増した機体は路面を離れて大空へと駆け上がっていった。

離陸の様子は見物客で溢れかえったスタジアムや広場、国中、世界中で中継され華やかな式典の開始に歓声が上がった。ここ、国会議事堂前の広場を埋め尽くした人々も空を見上げ、軽飛行機の爆音に耳を澄ませた。
やがて、遠くにぽつんと見えた黒い点のようなものがぐんぐん大きくなり機体が姿を現わした。翼をきらめかせた機体は飛行姿勢を美しく保ったまま、国会議事堂上空を建物すれすれに一直線に飛び、大きく弧を描いて宙返りを行なった。再び議事堂に接近する頃合いを見計らってスイッチが入り、機体の後方からスモークが流れ出した。パイロットは巧みに機体を操って、議事堂上空にスモークで大統領のイニシアルを器用に描いて去っていった。と、大地を震わせるような轟音がとどろき、空の彼方から現われた空軍のチームが編隊飛行を行いながら、ホントワール共和国の国旗と同色に色づけしたスモークを長く引いて飛び去った。ふっくらとふくらんだ、大統領のイニシアルが国旗カラーのスモークに包まれ、大歓声と拍手の中を無数の紙吹雪が舞い散り、色とりどりの風船が放たれて空を埋め尽くした。
 国中に数多く設置された巨大なスクリーンが、貴賓席、観客席、会場、街角の風景を映し出している。再び飛行場に中継が切り替わり、記念飛行を終えたばかりのパイロットがスクリーンに大きく映し出された。カメラに気付いた彼は誇らしげに胸を張り、観客達は映像の彼に向かって、拍手と喝采を送った。

 就任式場内のアナウンスが大統領の登場を告げる。拍手がいっそう大きくなって、ぎっしり詰めかけた国会議事堂前の中庭から広場にあふれ出た観客はスクリーンに注目した。就任演説のため演壇に歩み寄るホントワール共和国大統領が、スクリーンの外でも中でも嵐のような拍手に迎えられている。
大統領は温厚そうな顔を紅潮させて国民に向かって微笑み、国全体が大歓声に包まれた。
 もう一人、緊張で強張らせた顔を紅潮させている人物がいた。昨日までの警備隊長、そして今日からは国家安全部の最高責任者であり、本日付で発足する秘密警察新隊長は、監視システムの画像解析に全力を挙げていた情報部から届けられたばかりの結 をたったいま、スクリーン上に見出して、狐のように釣り上がった細い目を光らせた。

第四章(後編) つづく


前ページへファンフィク部門トップへ