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見舞い

 病室に続く廊下を幾度注意されても、ほとんど駆け足に近くなる。その足音を待ち受けていたかのようにドアを開け、病室の入口に立って迎えていた母が椅子に掛けるようになり、やがてベッドに寄りかかって、ついに今日は横たわったままだった。
振り返ったナースが場所をあけると重ねた枕に沈み込むような母が見えた。透きとおるような顔をしている。見覚えのあるナースは硬い表情のまま病室から出て行く。戸惑いながらも震える足を踏みしめて近づいて行き、ベッド端に掛けてその細い手をとった。やわらかくていい匂いのしていた白いは固くかわいて薬のにおいがする。すまなそうに見上げる表情が微笑んだ。「また、背が伸びたのね」
近寄せた髪から頬を撫でてやってから、母親の目で全身を見回した。
「変わらないよ」
いってしまってから、互いに顔を見合わせる。
身の回りの世話はしてもらっているものの、服装にまでは注意が行き届かないのだろう。前を掻きあわせるように羽織っている上着の袖口から、チェックのシャツがはみ出している。
「これ…気に入ってるんだ」
サイズの合わない上着を身につけていることを母が気づいたのを悟ったらしく、子供なりの気遣いが伝わってくる。短めの袖口を左右の手でつかみ少しでも伸ばそうと互いに引っ張っていると、白い手がいたわるように重なりそれを押し留めた。

「上着を掛けていらっしゃい」
暖房のよく効いた室内で厚みのある上着をつけたままでいる子供を促すと、素直に上着を肩からすべり落とした。不意に憶えのある、かすかな粒子が鼻先を掠める。室内に広がった航空燃料の臭いがほんの一瞬、二人を隔てるかのように室内を漂いかけたがたちまち空気と混じりあって消えた。
「飛行機に乗ってきたの?」
「あっ!」
哀しみとも痛みともつかないその表情には憶えがあった。『パパ、おそいねえ』ひざに抱かれながらたった一度だけつぶやいた時の表情。自分を抱きしめる腕に不意にこもった力と供に心に刻み付けられている。母の顔を見ることができず、うつむいて取り繕う言葉を探していると
「楽しかった?」
青白い顔が微笑んだ。空に心を許せるはずもないけれど、これも巡りあわせというものかも知れない。この子が空を望み、空もこの子を迎えるのならばこの背に手を添えよう。『ママ』とあどけない声で呼んでいたのが、いつしか『おかあさん』と少年の声になっている。

チャンス

 世界で最も美しい国、ホントワール共和国。秋を迎えるこの頃の夜は急に冷え込むことがある。季節が移り行く中で、国民の変わらぬ支持を得ている大統領は対立候補も無く、当然のように再選されて来週に控えた華やかな就任式を全国民と多くの観光客が心待ちにしていた。表面だけ見ていれば世界で最も美しく平和で穏やかな国に見える。だが、必ずどこかでギャラクターと結びついているはずだ。7年前、南海での飛行機事故にこと寄せて名を消し姿を変えて潜入に成功したものの、証拠を掴むどころか昼なお暗い闇でもがくような月日を重ねている。(また検討違いかも知れん)内心、自嘲気味に呟いて寒さに身震いした。切り裂くような冷たい風が彼を包み、ビルの谷間を吹き抜けていく。
「わぁ!寒いっ」
声の方を見ると明るい照明の灯った店のドアを押し開けて、子供が後ろを振り返っている。母親が子供と手をつなぎ、父親は二人を寒さから庇うように寄り添う。一家を乗せた車がビル街の向こうに消えていった。あたたかいものが恋しかった。人の声が聞きたい。温もりに飢えているのを感じる。
以前、立ち寄ったことのある酒場に自然と足が向いた。
 明かりが届かないような裏通りですら掃き清められ、治安の良さに安心して観光客が行き交う。人々をやり過ごしながら辿りついた酒場の前でわずかに躊躇していると、呼び声がして通りの向こうから例のアクロバット・パイロットが駆け寄って来た。
「あんたもここが行きつけか?」
彼はこちらの肩を抱いて離さず、来週に迫った就任式でのアクロバット飛行について空軍と打ち合わせを終えたこと、パイロットたちと飲みに行ったが肩が凝るばかりで連中と別れた後、飲み直そうとここへやって来た、とアルコールの混じった笑い声を響かせながら機嫌良く喋り、大きな肩でドアを押し開けながらそのまま鷲尾を中に連れ込んだ。

人の声と温かい空気でようやく自分を取戻す。傍らにいるのは油断のならないものを漂わせている傭兵上がりらしいパイロットだが、今夜だけは相手があるのがうれしかった。
互いの目の高さに掲げたグラスを楽しみながら、アルコールに心が少しほぐれたような相手をさりげなく観察する。今夜のこの男は飛行場で声をかけた時と雰囲気が違うと感じつつも、やはり獲物を狙う猟犬の気配を伺わせる。(何者なんだろう?)この2回目の出会いを偶然と流すか運命と思うか、パイロットは迷っていた。いま抱えているヤマは一人では荷が重過ぎる。運命と思ってこの男を引き込むか、他を当たるか…。さり気なくポケットの中を探り。傭兵になるなど思いもしなかった頃に得たウィング・マークを手の中でそっと転がした。迷った時に彼を導いてくれる賽の目は(行け)と出た。
「なあ、話があるんだが」
座り直し、単なる飛行機好きではあるまいと確信を持って相手の目を覗きこんだ。


「大丈夫なのか?」
「うむ。動かなければ何も掴めん。もう7年になる」
単独行動を重ねていた今までと異なり、偶然に接触を持った移民のパイロットが掴んだ情報に賭けてみたいと言う鷲尾を危惧したが、力の無い言葉の隅に自嘲が滲み焦りに追い詰められているのも感じる。
「わかった。くれぐれも慎重にやってくれ」
南部としてもこれを突破口にし、なんらかの決着をつけたい。戻してやりたい。ほっとした気配が通信装置から伝わってくるのを励ますように話題を変えた。
 身元を隠す為に、滞在の長くなったユートランドからまた移動の必要があり――、黙って説明に聞き入っているが、妻と子の消息に縋る心が伝わってくる。
「先週、出発したところだ」
と、言葉を切ると間髪をいれず、
「それで?」
と、先を促す。
落ち着き先での詳しい情報がまだ手元にないので、仕方なくその旨を告げると
「そうか…」
いつになく寂しさを隠せない声音が通信を終了しても耳に残った。ホントワール共和国での活動の浮沈と、旅を重ねる夫人の容態が連動する不思議に南部博士はふと胸騒ぎを覚えた。

塩と水

「ジュゼッペ・アサクラの家族、縁の者はほんとうに残っていないのだろうな?」
カン高い声が受話器から流れてくる。
「それはもう。親子とも共同墓地に埋葬しまして、その後も墓の見張りを続けていますが、これまで墓を訪れる者、花を手向ける者、ひとりとして…」
「間違いないな」
ダラダラと続く報告を遮って金属的な声が念を押した。電話回線の奥からひやりとしたものが伝わってくる。なんとかベルク・カッツェを納得させて耳元から離した受話器を見詰めながら、市長は額に吹き出す汗を拭った。カッツェとの会話をひとつひとつ思い出しながら、自分を納得させる。(あれはジュゼッペが愚かだったのだ)
 締めるだけ締め上げ、搾り取るだけ絞り取る。それがこれまでのやり方だった。南国ムードの避暑地とは名ばかりの乾いた布をさらに絞り上げるような暮らしにBC島の島民は喘いでいた。大陸と大陸に挟まれた交易の要に位置するこの島は、紀元前の昔から多くの支配と侵略を受け続けてきた。その長い歴史の中で、現在の支配者が最も強大で要求が苛烈だった。島の組織を束ねる大ボスだったジュゼッペは、ギャラクターが独占していた全ての中から、塩と水だけは島民の自由にさせた。独特の風味を持ったこの地方の塩と豊かな湧き水は、パスタを中心とした食文化を発達させ、世界に平和が続いていることもあって素朴さや自然を求めて島を訪れる観光客が少しずつ増え始めた。塩の生産が軌道に乗りはじめると島の生活はごく僅かながら良くなった。
 少しでも収入が増えたのであれば、それらは全てギャラクターに差し出されるべきであり、立場的にも今まで以上の旨みがあると目論んでいたのだが、そう考えるのは、当時収入役だった自分とひと握りの取り巻きたちだけだったと気づいた時には、ジュゼッペは独特の求心力でギャラクターはもとより市民の心も掌握してしまっていた。過酷な要求にさらされるのみだった島の連中は塩と水だけで、ギャラクターではなくジュゼッペ個人に平伏してしまい、いままで立場を利用して島民たちに無理難題を強いてきた自分の身が危うくなりかけた。我が身の危機を組織の危機に巧みにすり替え、その頃まだ直接に連絡をとることもできたベルク・カッツェに内報した。カッツェは直ちに一家の暗殺を命じ、実行された。
 ギャラクターと市民を切り離すようなやり方など成り立つものか。島に生まれた時から運命は決まっている。ギャラクターに生まれれば上を望むこともできる。島を出ることもできる。そうでなければ島の中でギャラクターに生死を定められる人生を送るだけだ。
市長は共同墓地の方へ向いている窓を見ないようにしながら、亡くなってもなお自分を苦しめるジュゼッペ・アサクラを呪いつつ、ドアをロックして部屋中をうろつき回りなんとか落ち着こうと努めた。

 BC島市長の媚びるような話し方がカッツェの神経を苛立たせ、まだ報告が続いている電話を切り上げた。幼い頃から身体の異変を蔑まれ笑い者にされてきたカッツェは、ギャラクターの首領になった今も自分には人望も人脈もないことをよく知っている。BC島もホントワール共和国も末端の戦闘員に至るまで、腹の中では自分を笑っているような気がしてならない。(だが、私は選ばれた人間。地球を支配する人間なのだ)言い聞かせながらカッツェは自分自身を励ました。

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