前ページへファンフィク部門トップへ

見舞い

 一刻も早く病室に辿りつこうと、幾度注意されても廊下を進む足取りは駆け足になってしまう。廊下にナースの姿があるときは、出来得る限り気持ちを抑えても急ぎ足になってしまい、どうしても静かに歩くことができない。
ベッドに横たわり、枕に寄りかかり、椅子に掛け…だった母がその足音を待ち受けて、今日ばかりはドアを開き病室の入り口に立って迎えている。
初めて病室に飛びこんできた時のように息を弾ませている子を迎えながら、また背が伸びたことに気がついた。そういえば、ついこの前まであどけない声で『ママ』と呼んでいたのが、『おかあさん』と少年の声になっている。
「走ってきたの?」
うなずくと、柔らかくて白い手が風に吹き乱された髪をゆっくりと梳き揃えてくれる。
「近道したでしょ?植込みのところをくぐって」
「どうして…」
驚いて瞠った青い眼の前に、細い指が髪に絡んでいる小さな枯葉をつまみあげて見せ、二人はお互いをいたわる様にどちらからともなく笑いあった。

ジュピター山のふたり

 「生存者は?」
国連軍の軍服に身を包んだ兵士の一人が、山を登ってきた五人を迎えて尋ねた。重い装備を担いで山を登り切った兵士達は息を弾ませながら、互いに首を振って否定の意を示した。
「そうか…相当ひどかったらしいな」
迎えた兵士の横に並んだ別のひとりが、全身から焦げた臭いを漂わせ煤けた顔の五人が装備から取り出した水筒の水を飲み干すのを見ながらつぶやいた。
「ああ。紛争に民族や宗教がからむとこじれるばかりだ」
一人が水筒から口を外して答える。
「5年ほど前に隣の国で政権が引っ繰り返って、大量の避難民が流れ込んだしな」
「またここで、難民になっちまうのか」
重いため息が続いた。
「どこもひどいが全滅した村にまで火を放ったジュピター山は、もう少しで手が付けられなくなるところだったぜ」
水で充分に喉を潤した一人が目の当たりにした惨事に興奮を隠せないような早口で語リ出した。
「それに…ん?」
さらに言葉を継ごうとした兵士の腕を押さえて別の兵士が注意を促し、残りはたちまち戦場の顔つきになって携えている武器を構えた。
 小隊の半分が集っている見晴らしの良い丘に、目印のように立っている数本の古木のすそに生い茂っている大人の胸の高さほどの草むらに二人が近付き、一人がしゃがみこんでこんもりした茂みを押し広げようとした。もう一人は草むらに向かって銃口を構える。残りの兵士達もその背後に放射状に広がって武器を構えた。茂みの上を不自然に覆っている蔦がかすかに揺れ動いている。蔦を取り除くと子供がふたり、うずくまっているのが見えた。小さな子をやや大きな子が庇い、表情を凍りつかせてこちらを見ている。
油断なくふたりを眺め回した先頭の兵士は子供たちに視線を据えたまま、ゆっくりと武器を下ろし片手を背後に回して武器を収めるよう合図を送った。
「おいで。もう大丈夫だよ」
差し伸べられた手とその背後に集ってきた国連軍部隊の顔を交互に見詰め、子供たちはいっそう怯えたように茂みの中で、うずくまったまま互いにしがみついている。母国語に始まって最近覚えたこの地方の片言も総動員し、幾度も手招きして子供たちを差し招いた。
 不安げに揺れ動いていたグリーンの瞳が一点に吸い寄せられている。その視線を追った彼は、黙って腰の水筒を外し手渡してやった。飛びつくように受け取った子供は、口をつけかけて止め、瞬きもせずに水筒に視線を注いでいる小さい方の子供にそのままを渡した。むさぼるように水を飲み始めた幼い子を見詰めている大きい方の子供に別の兵士が水筒を手渡して、ようやく女の子が水を口にした。(かわいそうに、姉弟か…)戻されてきた空の水筒を受け取りながら笑顔を向け、もう一方の手で再びふたりを手招いた。ようやく茂みからつかまり合うように立ちあがったふたりは火事から逃れて来たらしく、煤けた顔をしている上焦げたような跡もある衣服はところどころ破れている。幼い子の方は裸足であった。
惜しげもなく残りの水を使って装備品のタオルを濡らし、女の子の顔をそっと拭ってやると気持ちがいいのか強張っていた表情が崩れ、くすぐったそうに肩をすくめて小さく笑い、タオルを受け取ると弟の顔を拭き始めた。ふたりの顔立ちがはっきりすると髪や瞳の色、肌の色も含めて共通点があまりないことに気がついた。

 輸送トラックに揺られて前線基地に辿りつく頃には日が暮れかかっていた。寝入ってしまった幼い子を抱えているうちに大きい方の子も寝入ってしまい、互いにもたれかかって眠っている子供たちを揺すり起こすと、兵士達は手分けしてふたりをトラックから抱き下ろした。
前線基地の入口で、おそるおそる奥の様子を伺っている女の子に
「さあ、入ろう」
幼い弟を抱いたまま声をかけると、抱かれた子が彼の顔をのぞき込んでにこりと笑い、床に滑り降りて姉の手をとった。
簡単な作りの建物とはいえ生活設備の整った基地内部は明るく、夕食の仕度にかかっているらしい気配がして、食べ物のにおいが廊下にまで漂ってきている。子供らしい表情や仕草がようやく出てきたふたりを連れて奥に進みかけると、廊下に面したドアが開き、今回の紛争を担当する調査官が出てきた。
「その子らは?」
突然、行く手を阻まれた弟がわずかに進み出て姉を背後に庇う仕草を見せた。思いがけない反応にむっとした調査官は表情も険しく、ふたりを見下ろし小さな全身に視線を這わせながら重ねて尋ねてくる。
子どもらは、怯えたように後ずさった。強張っていく小さなふたつの肩を左右の手で、背後からそれぞれ包み込んでやりながら、
「ジュピター山で保護した。この二人以外に生存者はいない」
「姉弟なのか?」
「ああ。そうさ」
背を曲げるようにしてなおも二人を観察しようとする調査官に、姉にしがみついた弟が背後で姉の手を探り求め、その小さな手を姉が握り締めるのを見ながら、第一発見者の彼はぶっきらぼうに答えた。
「名前は?いくつだ?」
「それどころじゃない」
いっそう強張っていく小さな背中から視線を上げて、彼はいい加減にしろとばかり調査官を睨みつけた。
「わかった。医務室に連れていってやってくれ」
調査官は子供たちと彼に笑いかけて、もとの部屋に引っ込んでしまった。
 
 交代で夕食をとるため人数が減る寸前だった医務室は、迎えた子供たちに手早くお湯を使わせると、簡単な診察を済ませ、裾と袖を大きく折り返したありあわせの衣類を着せて体裁を整えると、まずは何か食べさせるようにと、付き添いの衛生兵をひとり寄越してくれた。
手をつないで少し前を行く小さな姿に続きながら、ぬいぐるみのクマを連想させる体格の良い衛生兵に顔を寄せて、ふたりに聞えないよういきさつを話すと、子供好きらしい彼は眉を寄せて鼻をすすり上げた。
目の前のテーブルに載せられた簡単な食事にすら目を丸くしている子供たちを、痛ましそうに見ながら若い衛生兵はスープから食べ始めること、少しずつ口に運ぶことを身振り手振りでふたりに伝えている。女の子がひとくち啜ったスープが細い喉を通っていくのを祈るような思いで見つめる。ひとくち飲み込んでから深く息をつくので、様子を見守っていると視線に気づいて恥ずかしそうに笑った。ほっとした彼は軍服の袖を強く引かれて我に返り、さっきから催促している弟の口元に吹き冷ましたスープの匙を近づけてやった。
言われたことがよくわかったのか、ふたりは少しずつ食べ物を口に運びゆっくりと飲み下している。幼い弟が何事も姉の仕草を真似るのや、小さな姉が弟の様子を気遣うのを見て、このふたりがいかに互いを頼りにして戦火を逃れてきたかと思うと胸が熱くなった。

第四章(前編) 終


前ページへファンフィク部門トップへ