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ホントワール共和国

 欧州の北方に位置するこの国は雄大で美しい自然に富み、観光立国として広くその名を知られつつあった。豊かな自然と穏かな国民性にひかれて毎年、世界中から多くの人々がこの国を訪れる。犯罪の検挙率が極めて高く、観光客がいかに増加しようともトップクラスの治安の良さを誇っている。
観光収入で国は潤い、豊かな経済発展を遂げていく自国に国民はたいそう満足し、この繁栄をもたらした現大統領を深く信頼して、この秋の再選を経て二期目となる政権のスタートを心待ちにしていた。何もかも上手くかみ合い、それがこの先も永く続いていくと誰もが信じ切っていた。
 この平和で穏かな国、ホントワール共和国に南部博士の命を受けた健の父、鷲尾健太郎が自ら操縦するテスト機の事故にことよせて南海上で消息を絶ち、密かに潜入を果たしてからすでに6年近くの月日が流れようとしていた。
潜入に成功したものの盗聴や傍受を避けるため、こちらから一方的に南部に不定期な連絡をとるばかりで、通話の内容は極力必要事項のみを伝え合う短いものに終始した。

 国際科学技術庁の保護下にあるとはいえ、あまり丈夫ではない妻が幼い子を抱えて、次の目的地であるユートランドに子供と共に無事到着したものの、空港で倒れて入院したという話を聞いたときは、さすがに心が波立った。それを意志の力で押し鎮め未確認の情報に振り回されながらも、二人の僅かな消息に縋るような日々が流れた。
ここしばらく南部博士との連絡は途絶えていたが、昨日の深夜に交わした交信の最後に妻の見通しを聞くことができた。言葉少なに妻の入院を告げた時の声の重苦しさとは打って変わったような南部の声は、妻と子の便りだけが支えの男を大いに力づけてくれた。
明るいニュースはいまだ潜入の目的を果たせない彼の心を久しぶりに弾ませ、その足を海岸沿いにある以前にはなかった、小さな民間の飛行場に向けさせた。
 ごく小規模の飛行学校を兼ねているらしく、滑走路ではそろいのキャップをかぶった訓練生たちが練習機のまわりに群がっているのを眺めていると不意に声をかけられ、鷲尾はゆっくりと振り向いた。飛行場の柵に添って近付いてきた相手の顔を見て内心(あっ)と思ったが表情は動かさなかった。もう10年近く前、アクロバット飛行の大会で優勝したパイロットの顔がそこにあった。年は重ねてはいるが、記念大会で優勝者に贈られたパイロット・ジャンパーをいまだに着込んでいる。
「飛行機が好きなら、中に入れてやろうか?」
「いや、ここでいいよ。ありがとう」
「そうかい」
男はそれ以上無理強いせず、厳しい資格審査にパスして、ようやく憧れのホントワール共和国に移住することができたこと、ここの責任者の職を得たことなどを問わず語りに話し出した。
適当に相槌をうちながら油断なく様子を伺っていると
「大統領の再選が決まったらその就任式で、俺は国会議事堂の上を飛ぶんだぜ」
「ほう」
「俺の国だもんな」
男は胸を張った。さらに両手を広げてジャンパーの内側を見せる。
「10年前のお守りさ。こいつのおかげでいいことずくめなんだ」
大会当時、模範飛行をしたエース・パイロットたちのサインが裏地に書き込まれている。自分のサインをそこに見つけた鷲尾はひやりとしたが相手は一向に気付いた様子はなかった。
「教官!」
事務所から飛び出してきた訓練生が駆け寄ってくる。それに注意が向いたのを機に戻ろうとすると
「見に来てくれよ!」
人懐こい声が背後から追ってきた。返事の代わりに手を挙げて答えた男が歩み去るのを見送りながら(もっとでかいヤマを当てるんだぜ)訓練生の報告に耳を傾けつつ、傭兵上がりのアクロバット・パイロットは自身の胸の中でつぶやいた。

国家保安局

 ホントワール共和国・国家保安局の局長室で、保安局長がでっぷりと貫禄のついた身体を椅子に沈みこませ、入室してきた部下の警備隊長を執務机越しに見やった。
「監視カメラ、監視ビデオの設置、全て終了いたしました。これがその配置図と一覧表、大統領への報告書はこちらです」
痩せて背の高い警備隊長は、直立不動の姿勢をとりながら報告を始める。
「予定通りだな」
「大規模なものはほとんどありませんでしたから、急がせることができるものはできるだけ急がせました」
「うむ、ご苦労。協力した組織には優先順位をつけてそれに見合うことをしてやれ。就任式が終ってからでいい」
「かしこまりました」
 観光立国として治安の向上と維持に努めるため、この二人が中心になって徹底的な国中の浄化作戦を行なった。長い年月をかけ少しずつ始められた犯罪の撲滅と街の浄化は、周到な計画に基づき首都から国の隅々にまで及んだ。その為にはホントワールの裏社会とも手を結び、協力した組織には手厚い保護を、背いた組織は時間をかけて壊滅に追い込んだ。国のあちらこちらで行なわれる、観光客誘致のための建築物の補修、改築のたびに欠かさず監視カメラ、監視ビデオを組み入れた。街角に置かれるオブジェや美しい花の鉢植えさえ例外ではない。それらの作業はすべて裏社会の利権につながるよう巧みに操作し、裏社会を支える組織の協力と絶対服従を徹底した。
 保安局長は太い指で大統領府から送られてきた書類を繰り、その1枚を彼の前に差し出した。
「大統領の許可を得ることが出来た。就任式が終了して二期目の組閣人事が始ると同時に国家保安局は国防省に警備隊は国家安全部に名称が変わる」
「ほんとうですか!」
細く釣り上がった目を光らせる警備隊長の様子に満足しながら
「あくまで名称が変わるだけだ、いいな」
保安局長は念を押した。
「はっ!」

 長い廊下を自室へと戻りながら局長執務室から離れれば離れるほど、緊張から開放された警備隊長はようやく気持ちが落ち着いてきた。警備隊が国家安全部に昇格すれば規模と権限が増大し、以前からの計画通り新国防長官直属の秘密警察を立ち上げることが出来る。腹心の部下たちの顔が浮かんで来て思わずほくそ笑んだ。上着の内ポケットに入れた紙がかすかな音を立て足が止まる。自室で書類に目を通しているときに保安局長から呼び出され、うろたえて書類を一枚手にしたまま廊下に飛び出してしまい、局長執務室に向かう途中で気がついて内ポケットに押し込んだのだ。内容を思い出して血の気が引き、恐る恐る振り向いたが執務室の扉は閉ざされたままで、長い廊下には自分以外の人の気配もない。警備隊長は大きく息を吐くと制服の胸を張り、大またに進んで自室に通じる方角へ廊下を折れた。未完成段階のものではあるが、監視システムの配置図と一覧表をコピーしたヤツがいる。流れに逆らう何者かの存在にぞっとしたが、その監視システムを充実させたおかげでコピーをとる現場をカメラに収めることに成功した。時間さえかければ画像解析は可能である、との報告も情報部から受けている。解析結果が出てから動いても遅くはあるまい。秘密警察隊長になるのが先だ。うなずいたのが自室の前だった。

南部博士

 部下やスタッフの全てを遠ざけた別荘の屋根裏部屋の通信装置の前で、南部博士はようやく安堵の表情になった。この6年近く、僅かな手掛かりを掴んでは失望する…の繰り返しで、ホントワール共和国に潜入する任務を引き受け歯を食いしばって孤独に耐え抜き、ほとんど収穫のない徒労に終るばかりの苦しい時間を送っている相手をやっと喜ばせる連絡ができたのだ。
家族の安全を図るために幼い子を連れて国から国への移動を強いられ、このユートランドで力尽きたかのように体調を崩してしまった夫人は入院や検査を繰り返して回復に時間を要したものの、なんとか今後の見通しがついた。
 潜入以来、鷲尾が時間をかけて手に入れたギャラクターに繋がると思われる、ごく僅かな情報やほんの些細な手掛かりをもとに、詳細な分析や調査を重ねては証拠と認めるに値する結果に結びつけることができず、互いに『すまない』を繰り返して時が空しく過ぎていくのを見送るばかりだった。ただ、ほんの少しでもニ人の様子を伝えると素っ気無い返事の中にも、夫として父として揺れ動く心がこちらに伝わってくる。早く任務を終えて、もとの生活に戻してやりたいと思いながらもホントワール共和国とギャラクターを結びつける証拠を掴みかね、もどかしさがつのるばかりの長い日々だった。
 言葉を選びながら夫人の入院を伝えた時には、いかに平静さを保とうとしても声の反応は正直だった。その上かなり苦労をして入手したらしい、彼なりに今度こその自信を持っていた情報の数々をまたも否定する結果を合わせて伝えねばならず、さすがに声は沈み動揺すら伝わってきた。
相手の声が途切れて言葉もなく沈んでいる間に、これまで幾度も出掛かった見直しを勧める言葉を口にしようと決心した、南部博士が椅子に掛けた姿勢を正す僅かな時間を埋めるように『次を当たってみる』無念さを捻じ伏せるような口調の返事が返ってきて通信装置は沈黙した。飛んで行って力づけてやることも出来ないもどかしさ、すまなさを振り払うように屋根裏部屋を後にしたが、あの時の重苦しい気持ちはいまだ心に残っている。
 それだけに南部ですら胸を張って伝えたいこの朗報に、相手の喜びはひとしおで平静を装っているつもりの声が潤み、以前とは別の意味で言葉が途切れがちになった。夫人の様子をもう一度短く繰り返してから子供の話に移り、素直で利発なこと飛行機と空が大好きなことを伝えると照れたような父親の声になった。ホントワール共和国とユートランドを結ぶ密やかな会話が始まって以来、初めての小さな笑いが流れ通信は終了した。
 ホントワール共和国を発ってからの長い旅路を支え、母と子をユートランドに迎えてから今日まで、二人のどちらにも心を砕いてくれた担当の主任をまず、労ってやりたく椅子から立ち上がった南部博士は部屋を離れた。

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