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病室

 完全に腹を立てたらしいナースが荒々しい動作でドアから出て行った。週末の外泊がなぜか突然に取り消され、再びさまざまな検査をやり直されて、いい加減うんざりしたところに身体をほぐすためのリハビリテーションが開始されることになった。大人たちが約束を守らなかったことが腹立たしい上に、いやに子供扱いをしてくるリハビリテーションの担当者も気にいらず、彼と衝突したことが早速伝わったのだろう。BC島の大人たちと同じように優しい声を出してはいても、ここの大人たちが向けてくる作り笑顔の中の目は決して笑っていない。ひとりにされるのはもう慣れている。大人をおこらせることを心得ているジョーは気に入らないナースを追い払ったものの、退屈には閉口した。ちらりと見やった時計の針が思ったよりも進んでいるのを確かめて『今日は南部博士がみえますからね』病室を後にする際に捨てゼリフのようにナースが言い捨てたことを思い出した。あの博士はまたお説教をするんだろうか?なんとなく威圧感のある低くてよく透る声を耳の中に蘇らせながら、ジョーはドアの方に顔を向けた。
 まるでそれが合図のように病室のドアが開き南部博士が入ってきた。そのまま歩み寄ってくると長身を折り曲げるようにしながら、いつものように様子を尋ねはじめる。姿が見えなかった時には耳の中に聞えていた博士の声が素通りしていく。博士のすぐ後ろに見え隠れする小さな姿が気になって仕方がない。質問を重ねかけた南部博士は子供が何も聞いていないことに気づいた。子供の注意を促そうとした時にドアからナースが顔を出し、ナースに呼ばれた博士はそのまま病室から出ていってしまった。
南部博士が病室から出て行くと、子供は一足飛びにそばに来た。すばやく全身を観察する。年齢はさほど変わらないようだが、背丈は絶対に自分のほうが高いはずだ。(ケンカになったら負けるもんか!)濃い色の髪に青い眼。さっぱりしたかわいい服装でいかに周りの大人たちから大切にされているかがうかがい知れた。
(ふん!)なんとなく気に入らなくて上から下へ、下から上へと油断なく全身を見回すうちに眼があった。ふさふさとした髪に縁取られた顔の中で、青い眼が輝くように笑ったかと思うと
「なんの病気なの?」
子供特有の高くて澄んだ声で尋ねてくる。表情を硬くしてジロリと見返してやったが、引き寄せた椅子に座った相手は少しも変わらない楽しげな態度で返事を待っている。目線にさらに力を込めてみたが、にこやかな表情や無邪気そのものといった仕草につられ、同じような年恰好も手伝って半ば根負けして口を開いた。
 両親を亡くしたこと、自分も大きなケガをしたことを話し出した。さきほどまで笑っていた青い眼が瞬きもせずにこちらを見つめ、真剣そのものといった表情で話に聞き入っている。大きなブルウの眼にじっと見詰められると、なにやら神秘的なはかりにかけられているような気がしてきて落ち着かない。真っ先に手の出る連中ばかり相手にしてきたときとは勝手が違い、ふと言葉を途切らせたときまだ名前も知らないことに気がついた。
順序が逆だと思いながら『どうしてここに来たのか?』聞いてから続けて名前を尋ねようとすると
「おかあさんが…入院したんだ…」
声が震えるのを押さえつけるようにして言ったとたん、みるみる元気がなくなった。ゆっくりと大きな眼が伏せられ、それにつれて顔がうつむいていく。下を向くと揃った睫毛が長いのがよくわかった。(女の子みたいなやつ)いきなり様子の変わってしまった相手に驚かされたのが、なんとなく口惜しくて内心で嘲った。相手はそれきり黙り込んでしまっている。そろそろ南部博士が戻ってくるかも知れない。泣き出されでもしたら面倒なことになる。ナースにでも見つかれば、当然自分が泣かしたと思われるだろう。いつまでもうつむいている相手を持て余して言葉を探しながら困り果てていると、不意に子供がぐいと顔を上げジョーはいいかけた言葉を呑み込んだ。
 泣くまいと唇を噛み締めてはいるが、大きな青い眼に強い光がたたえられ、さきほどとは違う大人びた表情になっている。ますます驚かされて茫然と見ていると、ノックの音がして初めて見るナースが顔をのぞかせ、子供を呼びながら手招きした。返事もそこそこにドアに駆け寄りナースに連れられて病室から出ていってしまった。
 病棟と病棟を結ぶ通路を渡り、また別のエレベーターに乗ってさらに別の通路を左に折れた。幅の広い廊下は静まりかえり、まっすぐ奥まで続いている。左右にドアの並んだ廊下を歩き出してすぐに子供が走り出した。小さな身体は止めようとしたナースの手を逃れて、弾むように廊下を駆け、子供がまっしぐらに目指したドアが待っていたかのようにぱっと開いて次ぎの瞬間、子供は母の胸に飛び込んだ。

 不思議なことが起こったかのように、かたわらの椅子と閉ざされたままのドアを交互に見比べていたが、とうとうそれきり病室には誰も入って来なかった。やがて、廊下から面会時間の終了を告げるメロディが流れてくるのを耳にして、ジョーはいっそう不機嫌になった。(あいつ、戻ってこなかった)天井をにらんでいたジョーは病室の一方の窓から、正門に続いている通路を見下ろせることを思い出した。
苦労してベッドの上に起きあがり、身体を反転させると全身が軋んだ。まったく気に入らないリハビリの担当者だが、明日からは自分のために真面目にやろうと心に決めた。ゆっくりとベッドから降りて、あちらこちらにつかまりながら窓辺に向かって進む。ようやく辿りついた窓から下を見ると、ひとり、ふたり、病院から去っていく人がこちらに背を向けて薄暮の中に消えていく。
(来た!)視野の右隅から背の高い南部博士が現われた。博士のかたわらに小さな姿があるが博士の陰になってよく見えない。大きく歩を進める博士からしだいに遅れがちになったかと思うと、小さな姿ははっきりとこちらに向き直った。身動きもせずにこちらを見上げているので、苦労して手を上げ合図を送ったが反応がない。(どこ見てるんだ、あいつ)歩みが遅れがちな子供に気付いた南部博士に促されるたびに2,3歩、博士に近寄るもののすぐに足を止めては病棟の方を向き、立ち尽くしている。
(大きな眼だな)その眼が一心に見詰める先には母が居る窓があるのだろう。
通路の先で佇んでいた博士は、足早に近寄ってくると子供の手を取った。博士に手を引かれても顔は肩越しにずっとこちらに向けられ、病室を見つめている。
(あいつ、泣くのかな)南部博士に手を引かれるまま木立の中に見え隠れしていた姿はいっそう小さくなり、やがて庭園灯の届かない闇の中に消えていった。

第三章   終

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