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 自分が学んだ学校を子供に見せてやりたかったが、飛行機から降り立った港街は機内での説明どおり、記録的な猛暑に見まわれていて埃っぽく、ここからさほど遠くはない母校に立ち寄るのはあきらめて、船が出発する夕方まで涼しいホテルに留まることになってしまった。かつて赴任地に旅立つ両親を見送るため一緒に過ごしたホテルは、昔とかわらず古風なたたずまいを見せている。
手荷物を預け、おやつにしようとティー・ルームに子供の手を引いて向かった。
「入れてあげる」
ポットから注がれたばかりの熱々のコーヒーを前にして、子供が自分の側に置かれていたシュガーポットを引き寄せてしまい言い張るので
「じゃ、お願いね」
椅子の上にひざを揃えて上がり、身を乗り出した小さな手は意外と器用に動き、銀の匙ですくった砂糖を慎重にカップの上まで運び、中に落としたかと思うと、ピッチャーを取上げてクリームを注ぎ、まるで儀式のようにスプーンで2回ゆっくりかき混ぜると受け皿ごとこちらに押してよこした。
「ありがと」
ひと仕事終えた表情の子供に
「おいしいわ」
ひとくち飲んでから笑いかけ、二人して小さく笑いあっていると通路越しに隣り合ったテーブルに女性客が案内されてきた。にわか雨に合ったらしく、バッグから取り出したハンカチーフで服をぬぐっている。目が合った。
「あら!」
「まぁ!」

 テーブルを移ってひとしきりお互いのことを語り合った。
「そう、大変ね」
聞き終わって静かにつぶやいた学校時代の友人は、いたわりを込めた眼差しを向ける。さきほどまでの話によると、女子修道院が経営していた母校は古い建物が立て替わって共学になり、彼女は卒業後もそのまま教師として勤めているという。『近くに用事で来たら、ここのケーキが恋しくなって』と笑いながらも子供に向けられるさりげない視線や問いが、教師のそれになっている。まるで自分が聞かれているように緊張していると
「あなた、よく育てたわね。それに相変わらず優雅でエレガントね」
笑顔でほめられて赤くなる。
テーブル越しに向かい合った子供の顔を見ながら、
「ママが好き?」
「大好き!」
弾けるような答えに友人は声を立てて笑った。

 友人に促され、開け放たれているフランス窓からティ-・ルームに面している庭園にでると、おしゃべりの間に通り雨はあがったらしく埃っぽかった木々が瑞々しさを取り戻している。歓声があがった方角を見ると雨の間止められていた噴水が、再び水を吹き上げ、様々な形をつくる水の動きに散策の人が足を止めている。
「見てきてもいい?」
「いいわよ。いってらっしゃい」
果てしなく続く女同士の会話から開放された子供は、噴水に向かって走っていく。話を続けながらも、絶えず子供に向けられる視線が母親のものになっている。微笑ましげに目を細めた友人は手際良く話を切り上げて、庭園から歩み去っていった。
噴水を眺めている子供に寄り添いながら
「ママはお家が遠かったから、学校の寄宿舎にいたのよ。そのときのお友達なの」
「きしゅくしゃ?」
「子供だけのお家よ。学校の中にあるの」
「そこにいくの?」
「行きたい?」
「いやっ!」
「ママもいや」
わっと飛びつく子供を抱き上げ頬擦りしているのを木陰から見て、母校への入学を勧めに引き返してきた友人は二人に気付かれないよう、もとの道に戻っていった。

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 枕に頭をつけるとエンジン音や、船体に当る波の音が遠くかすかに伝わってくる。ベッドが、船室がゆったりと揺れ、潮の香りなどが入り混じった船独特のにおい。子供もそれが気になるらしく、落ち着かなくてベッドの上を転々としている
「こちらにいらっしゃい」
上掛けを持ち上げてみせると、枕を抱えてとなりにもぐり込んで来た。柔らかな腕に抱き寄せられ、いい匂いにつつまれて枕に頬をうずめていると、優しい手がしずかに頭や背を撫でてくれる。
「あの人たち、もう寝た?」
「空港で見た人達のこと?お昼間の?」
「うん」
「もう、みんなおやすみしたでしょうね」
「じゃ、大きなお部屋がいるね」
「そうね」
「枕もいるね、たっくさん」
自分で自分の言ったことがおかしいらしく、くすくす笑っていたが不意に静かになったかと思うともう健やかな寝息をたてて眠っている。少しずつひざから離れつつあると思っていたのに、寝顔はまだまだ幼さを残していて可愛くてならない。小さな肩を上掛けで包んでやり、枕に乗せられた手をベッドの中に入れようとして、そのままそっと重ね合わせてみる。ようやく包みこめるこの手もやがては大きくなることだろう。

 臨時に赴任した先の大使館で起こった爆弾テロ事件で両親を一度に失い、クラスメイトが遠巻きにして囁やき合うなかを消灯時間が過ぎてから、毎晩、寄宿舎を抜け出しては部屋に来てはいっしょに泣きながら、朝までいてくれたのは再会したあの友人だった。舎監のシスターにひどく叱られたと、かなりたってから伝え聞いて暖かなその気持ちがいっそう身に沁みた。
テロ事件をきっかけに赴任先の国では内乱が起こり、大使館を閉鎖して国交が途絶えてしまっては両親の遺品どころではなく、墓碑の前で涙にくれるだけの自分に手を差し伸べてくれたのはあの人だ。親しさを増すに連れ「異教徒の」「東洋人の」と保守的な人々の陰口が耳に届いても意に介さず、びくともしなかった。この子のためにも、今度は泣いてばかりいるわけにはいかない。それに心のどこかで『行方不明』という言葉を信じてすがっているような部分がある。行方不明ならばいつかは帰って来るはず。その時、毎日を泣き暮らしていました、ではなんとも恥ずかしい。
夫と同じ色をしたこの髪は、ごく幼い頃は全体がふわふわと柔らかだったのに、いつのまにかクセがつき、とくに前髪はこの子の利かん気を表わすかのように、跳ねあがるようになってきた。その髪をなでてから小さな額に唇をあて、安心しきった寝顔を見ているうちに眠りにおちた。

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 昼寝をしている子供の様子を確かめにいってから階下に下りてくると、キッチンの窓から車が近くの小道に乗り入れて来たのが見えた。通りすぎるのかとレースのカーテン越しに見ていると、やや先の窪地で停車し誰も降りてこない。目を凝らすと、男性らしいシルエットがふたつ見えている。車から目を離さずに少しずつ、少しずつ電話に近付いていく。不意にドアが開いて、男たちが降りてきた。が、乗ってきた車のそばに佇み、こちらを見上げている。やや高くなっている家の位置からは黒っぽい服装をした二人の全身がよく見えた。長身で、年の頃は40代前半くらいの一人と中肉中背のそれよりは若いもう一人。やがて、意を決したかのように顔を合わせた男たちは歩き出し、やや俯き加減に家に通じるゆるい坂道を登り始めた。二人が近付いてくるにつれ、長身の方の上着の襟元に見慣れたISOのバッジがあるのを認め、電話に乗せていた手を降ろして玄関ホールに急いだ。

 『4歳の男の子がいて、奥さんは背が高く子供と同じ色の目で・・・』重大で恐ろしい知らせを告げに来るのはこれが初めてという管制局の男は、緊張して資料にあった家族のデータを小声でブツブツと繰り返しながら左右の足を交互に動かしている。並んで歩くうち、手入れの行き届いた庭に辿りついた。
ノックと同時に扉が小さく開き、飾り気のない服装をした若い女性が出迎え、名乗りながら国際科学技術庁とホントワール管制局の身分証をそれぞれ見せて、夫人の在宅を問うた彼等は相手が誰かを知って息を呑んだ。
居間に通された二人は、お茶の仕度にかかった夫人をソファにすわらせ話を切り出した。青い眼が大きく見開かれたかと思うと真っ青になって顔を背け、細い肩先が目に見えて震え出した。取り乱して泣き叫んだり、気を失ったりしたミセスを見てきた国際科学技術庁の主任も初めて同行した管制局の新人も、次に起こることを覚悟したが、相手は長い時間をかけて俯いていた顔を上げて、二人の男を等分に見、連絡を持って来てくれたことに対する礼を述べた。ほっそりした両手をきつく握り締めゆっくりと話すことによって、声が震えるのを懸命に押さえ落ち着こうと努めているのが伝わってきて痛々しかった。
「坊やには…」
「私から伝えます」
「それと、電話には出ないようにして下さい」
今までのミセスとはまったく異なる反応にとまどった主任が、言葉の接ぎ穂を探すうち管制局の男が口を挟んだ。
「報道の連中が動き始めていますので」
訝しげな表情に言い含めるように続ける。
「マスコミはあることないこと、書きたてますから。機体の整備不良とか操縦ミスとか」
主任が遮るより前にきっと強い視線に見据えられ、彼は怯えて口を噤んだ。青ざめた表情に明らかな怒りがあった。
「奥さん・・・」
南部博士からのことづてをつたえなければならない主任は、背筋を伸ばして座りなおした。

 「パパッ!?」
階段の途中から声がして居間に駆け込んでくる足音が続いた。居間の真ん中で立ち止まり部屋中を見まわしていたが、車の走り去る音が遠ざかっていくにつれ、嬉しげな表情がみるみるがっかりとしたものに変わり、ソファの背もたれに寄りかかったままの母に駆けよりひざに上がってきた。抱き寄せられるのも、頬擦りされるのもいつもと同じなのにどうしてママは下を向いているのだろう。
「パパじゃなかったの?」
小さな両手を巻きつけて訊ねてもうつむいて黙ったままの母に焦れて身体ごと揺すぶると、ほっそりした腕が身体の周りで細かく震え出した。
「パパ、おそいねぇ」
怯えたような凍りついたような表情が一瞬、こちらを見たかと思うとまたうつむき細かく震える手が小さな背を幾度も撫でて、胸の中に引き寄せしっかりと抱きしめた。
「ママ、いたい…」

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「それで、乗り継ぎはうまくいったんだろうね?」
「大丈夫ですよ。船が出るまで見届けましたし、出発便の搭乗者名簿も確かめました」
ISO内の喫茶室のひとつ、人気のない静かな一角にコーヒーが運ばれてきて並べられるまでそれぞれに口を噤む。
「あちらには気付かれなかっただろうね?」
報告を聞き終わった主任に問われ、動きかけた表情をごまかすかのように一人はコーヒーに目を落とし一人は煙草を取り出して火をつけた。
「大丈夫ですよ」
「それにしてもきれいな人ですね」
それまで黙っていた方がいきなり口を挟んだ。
「だろ?あの坊やもハンサムになるぜ」
「ママ似でしたからねぇ」
声高になりかけるのを制して、なんとしても自分が行くべきだったという後悔の念に捕われながら、今後この二人には関わらせないよう、また確認の方法にも一考を要する必要があると南部博士に報告しなければと思った。

第二章   終


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