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 ファースト・クラスのラウンジまで案内され、ゆったりと配置されている椅子のひとつに子供とならんでようやく、掛けることができた。身元を隠すためとはいえ、もうこれで何度目の移動になるのだろう。いつものように南部博士の方で何もかも手配を済ませてあるとはいうものの、今回はあまりにも急な移動で、つい先ほどまでほんとうに慌しかった。この椅子にたどり着くまでずっと走り続けて来たような気さえする。
近寄って来た航空会社の女性に子供と自分のための飲み物を注文し終えると、座り心地のよい椅子に身体を預けてラウンジを見渡すゆとりが出来た。その時、バー・カウンターのところに陣取っていたビジネスマンらしい二人連れが、自分たちからさりげなく視線を逸らしたのに気がついた。
子供のケガや病気には細心の注意を払ってはいるが、もっとも恐ろしいのは誘拐である。(この子に万が一のことがあったら生きてはいられない)重ねていた小さな手を握る手に思わず力が入り
「ママ、どうしたの?」
子供にささやかれて我に返った。
「なんでもないの」
搭乗案内のアナウンスまでここで待たなければならないため、子供はもちろん自分もこんなことで怯えるわけにはいかない。どんなことがあろうともこの子だけは守ってみせる。たとえ命に代えてでも。

 室内は旅馴れたジェット・セッターたちが、思い思いの姿勢でくつろいでいるが、男性客がほとんどの中で可愛い盛りの子供とその美しい母親との二人連れはいやでも目立つ。さりげなく注がれる視線を意識するまいと自分にいいきかせながら、ひざ上のバッグを開けてもう一度、飛行機の時間を確かめようとした。(あ!)搭乗チケットに挟まれた薄いブルーの紙に目が止まった。あまりにあわただしい出発だったため、掛かりつけの医師から薬をもらうのを後回しにするうちに、もらいそびれてしまい、ぎりぎりになって連絡を入れたところ、空港の薬局で受け取れるよう処方箋だけを届けてもらったのだ。ここで薬を受け取っておかなければ、次ぎに受け取れるのはいつになるのか見当もつかない。とはいえ、規模が大きくて具合の良くない人もやって来ている空港診療所を兼ねた薬局に、子供を連れていくのはためらわれた。
「なあに?」
振り仰いだ青い眼を見ながら、ここで待っているように言葉を選びながら言い聞かせる。
「あのお姉さんにもお願いしておくから、待っているのよ。」
「…うん」
しばらく母の顔を見つめてから、素直にうなずく小さな頭をそっと撫でてやり、バッグを取り上げて立ち上がった。すらりとした後ろ姿が部屋の奥からラウンジの入り口に向かい、そこに控えていた航空会社の女性が押し開けたドアから外へ消えるまで、視線を外さなかった多くのジェット・セッターたちは、たちまち小さな騎士の厳しい眼に射すくめられ、それぞれに苦笑いを浮べて手元のビジネス誌や専門紙に
視線を戻した。

 調剤のカウンターで処方箋を渡しながらプレートに診察室と書かれた方に目を向けると、その扉が内側から開いてナースが出てきた。笑顔で会釈をしながらナースはまた別の部屋に消えていっていったが、垣間見えた待合室ではジャンバーにくるまった若い男が激しく咳き込むのが見え、(出発までにもう一度診察を)と、体調を気遣って言い続けていた掛かりつけの医師の顔が浮かんだ。若い女性の薬剤師は薬の包みをいくつも見せながらひとつひとつ説明してくれるが、受け取ってしまうとラウンジで待たせている子供が気掛かりで仕方がない。できるだけ、近い通路を辿って戻ろうとしたときドレスを引っ張られた。
可愛い女の子が小さな手でスカートをぎゅっと掴んだまま、きれいなグリーンの瞳を大きくみはっている。身体を屈めて小さな愛らしい顔をのぞき込み
「ママと間違えた?」
こわがらせないように微笑みかけながらゆっくりと問いかけると、かぶりを振り表情が少しやわらいだ。
「ママはどこにいらっしゃるか、わかる?」
巡らせる視線の先を同じ高さからたどると、床に置いた荷物に囲まれて、こちらに向かって両手を大きく振り回し合図を送ってくる女性を見つけた。子供の目の高さではまず間違えるであろう似たような色合いの服装だ。そちらに手を振っている女の子の腕にはぬいぐるみの人形が抱かれている。
「ちょっと待ってね。」
母親のお手製らしいテディベアの首に巻いたリボンがほどけかかっているのを、手早く結び直した。
「おばちゃま、ありがとう。」
たどたどしくお礼をいった おしゃまさんは、にっこり笑ったかと思うと、手を振っている女性に向かってまっしぐらに駆け戻ってゆく。母の元へもどって行くのを見送っていると途中で振り返り、会釈を忘れぬ可愛らしさに思わず手を振った。
 「だめじゃないのっ、一人で、うろうろしちゃ!」
戦火を逃れ小さな姪を連れて避難する途中で、国連軍の保護下に入ったと聞かされたときには身体中の力が抜ける思いだったが、そのうち知った顔がまわりからひとつずつ減っていくと次第に心細さがつのってくる。乗り物に荷物ごと詰め込まれるような移動と果てしなく長い待ち時間の繰り返しで、へとへとに疲れきってしまった。
その間にふっと消えていく幼い子供たち、目を光らせ隙を見ては奪い取られる荷物。お人形が歩き出したかのようなこの可愛い姪にも得体の知れない男や女が目をつけ始めている。まわりの会話や断片的に伝わってくる情報を継ぎ合わせると反政府勢力が陣取っていた首都の中心部が壊滅したのは、ほぼ間違いないようだ。ぬいぐるみとともに姪を自分に預けて、センター・ビルのオフィスに勤めていた夫を捜しにいった妹にどうやって連絡をとればいいのだろう?妹が飛び出していった一時間後には市内全域に外出禁止令が出され、その後は非常事態宣言、国連の介入、PKO部隊の到着と続き、TVもラジオも全てのチャンネルが同じことを繰り返すばかりで、脅えてすがりつく小さな姪を抱きしめ部屋に閉じこもる日が続いた。
行方が知れない妹夫婦のためにも、この子だけはなんとしても安全なところに連れていってやらなければならない。

 「聞いてるの?」
おばさんは誘拐を心配して叱っているのだが、小さな子供の扱い方があまりうまくないうえに移動の疲れと睡眠不足そしてイライラも手伝って、叱りつけているうちに声が尖ってくる。
「ごめんなしゃい」
おばさんにあやまりながらテディ・ベアを抱きなおし、くまさんのリボンを結び直してくれた女の人を通路を行き交う大勢の人の中から捜そうとした。あのおばちゃまはきれいで何ともいえない、いい匂いがしてとっても優しそうだったのに、どうしておばさんはいつもいつもこわい顔をして、おこってばかりいるのだろう。あちこちの女の人を眺めていると
「じっとしてなさい!」
すかさず声が飛んできて、ジュンは小さくため息をついた。俯いた拍子に落ちた雫が、テディベアの布地に小さくにじんだ。

 ビジネス誌や専門紙に目を落としているジェット・セッターたちは、ぽつんとひとり母が戻ってくるのを待っている子供の存在は認めても関心は示さない。(ママ、おそいなぁ)ラウンジの入り口を振り向くたび、扉のそばにいる航空会社のユニフォームを着けたおねえさんがにっこり笑う。なんだか見張られているようで、落ち着かない。そのうえ,おねえさんは時々席から立ち上がってきて、そばまで来ると『ジュースのお代わりをしましょうか?』と『何か御用は?』を繰り返す。言い終わるのを待って、こちらも首を横に振ることを繰り返す。
「何でもいってちょうだいね」
おねえさんはここぞとばかり、にっこり笑うが早く席に戻ってほしい。

 ラウンジに戻ってくるとファースト・クラス担当の航空会社の若い女性に迎えられ、礼をいってから、子供のそばに座った。グラスを傾けながらも寸暇を惜しんでビジネス誌や新聞を拡げ、旅慣れた様子のジェット・セッターらしい人々が大半を占めるこの専用のラウンジで、厚みのあるカーペットを敷き詰めた床にはまだとどかない脚をぶらぶらさせながら、大きなソファに埋もれ子供はいかにも退屈そうにしていた。
搭乗案内に促されラウンジを出て行く人が続き、そのうち室内は老夫婦と自分達だけになった。人が少なくなったので聞くともなく伝わってくる二人の会話はフランス語のようだが、どうやら年老いた夫を老妻が低い声で責め立てているらしい。そういえばこの二人は、自分達がラウンジに入って来たときからずっと同じ姿勢のままいさかいを続けているようだ。
静かで落ちついたラウンジとは異なる、外のざわついた空気とあまりの人の多さに身体は疲れきっていたが、傍らに置いたバッグをまた引き寄せた。話の内容などわかるはずもないが、棘を含んだ言葉が飛び交う中に子供を置きたくはなかった。
「外へ出ましょうか?健」
子供はブルーの眼を大きくみはって母を見上げた。
「ママ、つかれてないの?」
6歳の子供が大人の自分を気遣うのがなんともいじらしく
「大丈夫よ。たくさん飛行機が並んでいるのよ。」
子供はもちろん、自分の気持ちも引き立たせるようにささやくと、母譲りの青い瞳が輝いた。

 大勢の人が行き交う空港ロビーを人ごみを縫うようにして、子供と連れ立って歩いていく。空港ビルのどのあたりか見当もつかないが、人が少なく椅子の並んだ一角があった。多分、ここにいた旅客たちは出発したばかりなのだろう。出発便の表示もなければ、ボーディング・ブリッジの脇にある、航空会社のカウンターもクローズされていて誰もいない。椅子に腰を降ろすと子供はさっそく、磨き上げられた一枚ガラスに顔を寄せて下に見える駐機場に見入っている。飽きもせずに飛行機を眺めているのがおかしく、自分達の乗る航空会社のマークをつけた尾翼が子供が見ている側とは反対の方から現れてきたので教えようと立ちあがり、真下に人が集まっていることに気がついた。
足元からほぼ垂直の位置に当るので、あんなに大勢の人がいるのにいままでまったく気がつかなかった。制服をつけた国連の職員たちに誘導されながら、長々とした人の列は動いたり止まったりを繰り返しながら少しずつ進み、先頭はタラップから機内に入っていく。
みな持てるだけの荷物を持ち、疲れきった足取りでのろのろと歩を進めている。大人の陰に子供たちが見え隠れするのが痛々しい。母の腕に抱かれている小さな子供もいる。
「あ」
よろめき歩く老人たちに押されたのか、見覚えのある小さな女の子が列からはじき出された。駆け寄ってきた国連職員が、抱きかかえようとするのを遮って、女性が腕を伸ばし子供を掴んで体ごと列の中に引っ張り込む。その乱暴な仕草に思わず眉をひそめた。なぜ、抱かないのだろう?母親ではないのだろうか?小さな姿はたちまち人の波に呑み込まれてしまい、職員が列を整えるとこちらからは見えなくなってしまった。
「あのひとたち、なあに?」
不意にすぐ近くで声がした。飛行機を眺めているのだとばかり思っていたら、いつのまにかそばに来て救援機に呑み込まれていく長い列を見つめている。
「ひなんみん?」
「みんな、どこにいくの?」
「せんそうってなあに?」
「おうちがないの!?」
矢継ぎ早に繰り出される幼い問いに何と答えよう?文字や数の数え方、簡単な計算などは教えることが出来るが、そろそろ学校に上げなければなるまい。音楽の手ほどきがひと段落すれば次ぎに絵を教えようと思っていたのに、国から国へと移動を繰り返す不安定な暮らしの中にあってはそれもままならない。それでも同年代の子供が経験する以上のなにかを、この子にはつかみとって欲しい。二人で過ごす時間のなかで、ひとの心の優しさ、あたたかさ、小さなもの、弱いものへの労わりや思いやりを絶えず教えていこうと思った。

 不意にアナウンスで呼び出されて子供と顔を見合わせる。聞き違えたのかと思って耳を澄ませたが、3ヶ国語で繰り返されては、間違いあるまい。搭乗予定の航空会社のカウンターまで人波を縫って行くと、航路の途中で竜巻が発生し当分は運行の目途が立ちそうもないと職員が説明し、別の空港から乗り継ぐ為にそこまでの連絡は船便になるという。
こちらに向けてカウンターに置かれている高速艇の乗船券に記された港街の名前に覚えがあった。娘時代を過ごした学校のある街で、街の様子が懐かしく思い出されてくる。職員が電話をかけ予約画面をのぞきこみ、予約の訂正とやり直しを何度か繰り返してようやく、発券機から新たな予約チケットが発行されてきた。もう一度、船と飛行機のチケットと乗り継ぎについてそれぞれの説明を受け、内容を確認してようやく手続きは終了した。大人同士の話が終わるのを待って、子供が訊ねてくる。
「お船なの?飛行機じゃないの?」
「お船にも飛行機にも乗るのよ」
「どっちも?」
「そうよ。途中でママの学校のある街に寄るの」
「ほんと?」
かすかに不安げな表情を浮べていた顔が、嬉しげにぱっと輝いた。

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