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「行っても、いいって!」
言い聞かせるはずの父親があっさり承諾してしまい、子供は飛び上がって喜んでいる。
資料に目を通している父親の手元を繰り返しのぞきこんだり、仕度をしてある荷物をさわってみたりしている。
「行っても、いいって!」
寝むる時間が過ぎようとしているのに、興奮で青い眼を輝かせてはしゃいでいる子供の着替えを手伝ってやりながらなだめなければならなかった。
 ようやく寝かしつけて居間にもどり窓のカーテンを少し開くと雲の切れ間から月がのぞいている。庭の様子から弱い雨が降っていたことがわかった。雨上がりの飛行場で子供が服をよごすことを考えて着替えをそろえ、タオルなど他のものもバッグに詰めていると
「引越しかい?」
明日のフライト・プランを読み返すのに集中しているはずの夫から笑いを含んだ声がした。
「きっとよごしますわ。走りまわるのですもの。」
つられて笑いながら、さらに必要なものをあれこれと思いつくままに用意をしていると
「明日は早いし、先に寝みなさい。」
低い声が暖かくうながす。

 なんとなく眠りが浅くてふと目が覚めると、まだ深夜のはずの部屋の中がぼんやりと明るい。何事かと思い起き上がってみると傍らに夫の姿はなく、開いたドアの向こう側、廊下をへだてた子供部屋から明かりがもれている。
真っ暗にするとこわがるので小さな明かりを朝までつけてあるが、その明かりの中で子供部屋のベッドにかがみこんでいる姿が壁にシルエットになっている。
(どうかしたのだろうか?)少し迷った末に起き上がりかけたとたん、じっと子供の寝顔に見入っていたシルエットが不意に動き出した。こちらに戻ってくる気配にいそいで横になり枕に顔をうずめていると、しばらくして部屋のドアが閉まり室内がふっと暗くなった。もどってきた人影はこちら側に廻ってきて、そのまま傍らに立ち尽くしている。以前、深夜に戻ってきたときには、飛び起きてびっくりさせたこともあるが今夜はなにやら様子が異なり、枕に顔をうずめたままじっとしていた。
 やがて深いため息をついたかと思うと、反対側に廻ってベッドにもぐり込み、長い間を置いていつしか寝息が伝わってきた。

・・・・・

 朝の混雑が始まる前のハイウェイを車はすべるように進み、一直線に伸びた高速道路の先にテスト飛行場の敷地が見えてきた。行き交う車や窓の外の景色に見とれていた子供は、格納庫前に並んでいる機体を目ざとく見つけて、大きな眼を輝かせている。
 駐車場から職員に案内されて管制塔の入り口に向かう途中で、駐機場で機体を陽光に輝かせている一機を指差して何やら父親は子供に話しかけている。管制塔の正面玄関で数人の職員に迎えられ、エレベーターで上にあがる。
エレベーター・ホールから廊下をすすみ、右奥のドアを開けると、テーブルの上にかがみこんでいた技術者たちがいっせいに顔をあげた。
 その中からこちらに歩みよって来た南部博士と挨拶をかわしている母にならって、子供は促される前にきちんと挨拶をし、そのまま抱き上げられても人見知りをせずにおとなしくしている。父のそばで大好きな飛行機に囲まれているとはいえ、見知らぬ大人ばかりの中で子供なりに緊張しているのだと思うと微笑ましくもあり、可愛くてならない。
やがて奥のドアが開き、予報官が隣室から抱えてきた気象図と気圧配置図を中央のテーブルに広げた。
南部博士から父の腕に移っていた子供は父親に抱かれたまま回りの大人たちと同じように、テーブルの上の資料をのぞきこんでいる。
予報官が気象図、気圧配置図に最新の気象データを当てはめながら説明をはじめると、いっしょになって小さな顔に難しげな表情を浮かべ、真剣に聞き入っているのがなんともおかしい。
こちらに呼び寄せようとしたとき
「ぼうや、飛行機が降りてくるよ」
開け放たれていた廊下側のドアから若い職員が、顔をのぞかせ手招きした。すると、子供は父の腕からあっという間に滑り降りてしまい、そちらへ駆けよっていく。あわてて後を追った母に手を引かれ、反対側を歩く若い職員が話しかけてくるのに物おじもせず答えているうちに最上階に着いた。

 ぐるりと四方をガラスに囲まれた管制室は、明るい光に満ちている。ちょうどいま、練習機らしい小型のプロペラ機がゆっくりと旋回して、滑走路の左手から着陸を開始しようとしていた。
ガラスに小さな顔を押し付けるようにして外の様子に見入っている子供の隣に屈みこんだ先ほどの職員が、機体を指しながら説明してくれるのにも、子供は熱心にうなずいている。
彼は子供好きらしく、この大きな青い眼をした子供をうまく扱ってくれるので、二人の様子を目のすみ留めながら
主任管制官に勧められた椅子に掛けた。
ようやく身体を落ち着かせることができて、ほっとする。

 地上で待ち構えていた整備員たちが、完全に停止した機体に向かって駆けよっていくのを眺めたり、練習機から降りたってきた航空学校の学生らしい、若いパイロットに手を振ったりしているうちに管制室の空気が次第に慌しくなり、それぞれの持ち場に付いている男たちの表情に緊張感がみなぎってくるのが見て取れた。かたわらの職員にうながされ母を振り返った子供はこちらに走り寄ってくる。抱き上げたひざの上で、柔らかな髪をなででやりながら、ここでじっとしているようにささやくと、こっくりうなずいた子供は可愛い声でたったいま見たばかりのプロペラ機の様子を、興奮気味に早口で話し出す。

 駐機場に移動した練習機に代わって、父が搭乗するテスト機が管制塔の正面に牽引されてきた。子供は眼を輝かせひざから飛び降りると母の手をぐいと引っ張った。
管制室のガラス越しに見送るつもりでいたのに、『ぜひ、滑走路へ』と勧められ、それを耳にした子供は歓声をあげて大喜びしている。
小さな顔をのぞき込み『そばから離れないこと』だけを固く約束させて、エレベーター・ホールに続く廊下に出た。地上から見送る職員たちが滑走路に向かうのに続きながらも、子供は母の手をぐいぐい引っ張って廊下をすすむ。
血は争えないということだろうか、こんなに小さくとも飛行機や父の仕事であるテストパイロットに興味を示すのがなんとも不思議に思えてくる。
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